自己中心的とは
2006/11/15 Wed [Edit]
いい忘れていた、というか書き忘れていたんですが、駄文のカテゴリ、削除しました。あれ単体でやるのもいいですが、それよりも他の色々なものに織り交ぜて使ったほうがいいかなと思ったもので。ですから消しました、というのは建前でして。実際は順序が逆なのです。この前の更新の時、多少小説への行き方をかえたのですが、そこで駄文への道をつけるのを忘れてしまいまして。昨日ほどに気づいたんですが、先のようなことを思ったわけでして。そのままにしておくことにしました。先ず読んでいた人はいるのかと、そういう疑問もあるけれども。
ところで授業すっぽかして考えていたことです。
ところで授業すっぽかして考えていたことです。
さて、自己中と言うものについて授業中なり帰り道なり考えてみたのですよ。この間の帰り道、友達と話しているときに、自己中の話がありまして。その時のことを思い出したのですよ。
自己中ってなんなんでしょう。まあ、これは略称で、自己中心的の略なんですが、では自己中心的とは。
ウィキぺディアによると、
1,自分自身を物事の中心と定義し、世の中の全てを解釈する事。又はそのような考えを元に他人の事を考慮しない行動をする者の事。
2,1の発展で、利己的な意味で他人を思いやらない行動をする者の事。最近では「自分勝手」という語よりよく使われる。
3,幼児期の心理特性。自分を基準にして、世界を解釈する。自分を客観視する事や、自分とは異なる価値観がある事を理解するのは、困難である。
だそうです。3に関しては、ここでは関係ないとします。赤ちゃんについて考えたってしょうがないですしね。
とりあえず1について。
自分自身を物事の〜、とあります。確かにそうですよね。これは2に書いてありますが自分勝手、ということなんでしょう。
でもですよ、人の行動の裏を返してみるとそれはすべて自分のためだ、ということが分かると思います。
他人を思いやる、助ける。例えば電車で腰の折れ曲がっているおじいさんがいます。ここで譲る人は譲るのでしょう。では何故席を譲るのか。それは、席を譲ったという事実が、人を助けてあげたという満足感が欲しいからです。そして、席を譲らなければ周りの目がきになります。気にはならなくとも、譲ればいいのかだとかそこを立つまで悩む破目になるはずです。すべてがすべてではないでしょうが、それが分かっているからこそ、つまり自分の不利益になることが目に見えているからこそ、意識的に、というのは少ないでしょうから、おそらくは無意識的に席を譲るという行動にでます。満足感、そして先にある不愉快な思いの回避。それの統合の結果だと思うのです。
他にも考えてみるとまだまだあるでしょう。何よりも先ず自分ということになるはずです。ならなければならないのです。なぜなら、他の人間、或いは物が先に来るということを想像してみましょう。そういった人のことを、狂信者、と呼ぶはずです。僕はそれを恐ろしいと思います。極端に言えば、他人のために死ぬことはできますか?と、そういうことになります。実際にはいるのでしょう。が、そう数は多くないはずです。
ならば、大抵の、大多数の人間は自己中ということになります。
ただ僕の思う自己中とは、先に言った、満足感、そして先にある不愉快な思いの回避、ということを中心として考えると、そのために人を助けたり、かばったり、思いやったりすることができる、ということにもなります。ですから自己中心的とは普通のことなんではないかと、そう思うのです。
2、に関してのことを、基本的に自己中、というのでしょう。つまりは自分勝手。僕の言う自己中とは、今まで言ってきた自己中というのはこれに分類されるものではありません。
決め付けてしまうのもまずいですが、あしからず。
えーと、読み返してみると相当偉そうなこと言ってますね……。若輩者が語るべき内容ではなかったかな……。
とりあえず今日はこれにて。
ではでは。
自己中ってなんなんでしょう。まあ、これは略称で、自己中心的の略なんですが、では自己中心的とは。
ウィキぺディアによると、
1,自分自身を物事の中心と定義し、世の中の全てを解釈する事。又はそのような考えを元に他人の事を考慮しない行動をする者の事。
2,1の発展で、利己的な意味で他人を思いやらない行動をする者の事。最近では「自分勝手」という語よりよく使われる。
3,幼児期の心理特性。自分を基準にして、世界を解釈する。自分を客観視する事や、自分とは異なる価値観がある事を理解するのは、困難である。
だそうです。3に関しては、ここでは関係ないとします。赤ちゃんについて考えたってしょうがないですしね。
とりあえず1について。
自分自身を物事の〜、とあります。確かにそうですよね。これは2に書いてありますが自分勝手、ということなんでしょう。
でもですよ、人の行動の裏を返してみるとそれはすべて自分のためだ、ということが分かると思います。
他人を思いやる、助ける。例えば電車で腰の折れ曲がっているおじいさんがいます。ここで譲る人は譲るのでしょう。では何故席を譲るのか。それは、席を譲ったという事実が、人を助けてあげたという満足感が欲しいからです。そして、席を譲らなければ周りの目がきになります。気にはならなくとも、譲ればいいのかだとかそこを立つまで悩む破目になるはずです。すべてがすべてではないでしょうが、それが分かっているからこそ、つまり自分の不利益になることが目に見えているからこそ、意識的に、というのは少ないでしょうから、おそらくは無意識的に席を譲るという行動にでます。満足感、そして先にある不愉快な思いの回避。それの統合の結果だと思うのです。
他にも考えてみるとまだまだあるでしょう。何よりも先ず自分ということになるはずです。ならなければならないのです。なぜなら、他の人間、或いは物が先に来るということを想像してみましょう。そういった人のことを、狂信者、と呼ぶはずです。僕はそれを恐ろしいと思います。極端に言えば、他人のために死ぬことはできますか?と、そういうことになります。実際にはいるのでしょう。が、そう数は多くないはずです。
ならば、大抵の、大多数の人間は自己中ということになります。
ただ僕の思う自己中とは、先に言った、満足感、そして先にある不愉快な思いの回避、ということを中心として考えると、そのために人を助けたり、かばったり、思いやったりすることができる、ということにもなります。ですから自己中心的とは普通のことなんではないかと、そう思うのです。
2、に関してのことを、基本的に自己中、というのでしょう。つまりは自分勝手。僕の言う自己中とは、今まで言ってきた自己中というのはこれに分類されるものではありません。
決め付けてしまうのもまずいですが、あしからず。
えーと、読み返してみると相当偉そうなこと言ってますね……。若輩者が語るべき内容ではなかったかな……。
とりあえず今日はこれにて。
ではでは。
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